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赤十字救護看護婦像慰霊碑「愛の灯」

慰霊碑「愛の灯」

日本赤十字社は、1877年(明治10年)の西南戦争から1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結に至るまで、傷病兵の医療救護のため、国内はもとより中国大陸や南方各地へ救護班を派遣いたしました。

救護班派遣

赤十字救護看護婦像慰霊碑「愛の灯」 日本赤十字社は、1877年(明治10年)の西南戦争から1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結に至るまで、傷病兵の医療救護のため、国内はもとより中国大陸や南方各地へ救護班を派遣いたしました。
召集された看護婦のほとんどは、まだ18・19歳の乙女たちでした。しかし、その若き胸には、兵士にも負けない大きな使命を誓う看護婦の姿が、静寂の中にも写真を見る私たちに強く伝わってきます。
赤十字救護班は、臨時の病院をはじめ、日本軍病院や野戦病院などに派遣されたほか、病院船にも派遣され、日夜を問わず傷病兵の救護にあたりました。中には、ガスマスクを装着しての救護訓練も行われていました。
病院船は、1898年(明治31年)と翌年に2隻が建造され、一般病室のほか、手術室・伝染病室や消毒室などを備えており、日露戦争や1926年(大正15年)の第一次世界大戦では患者輸送と救護に活躍しましたが、1942年・1945年にそれぞれアメリカの潜水艦によって撃沈されてしまいました。
また、赤十字救護班は、戦災による民間人の救護や、復員者・引揚げ邦人などを救護したほか、ジュネーブ条約に基づく捕虜・抑留者に対する救護活動も行われました。

「慰霊碑」建立

赤十字救護看護婦像慰霊碑「愛の灯」 日本赤十字社が派遣した救護員は、延べ44,328名にものぼり、うち、1,320名が殉職されました。特に、太平洋戦争では、殉職者の9割にあたる1,187名の救護員が、尊い生命をおとしたのです。
茨城県支部からは、計19個班の救護班、延べ560名の救護員が各地に派遣され、その救護活動は、内地はもちろん極寒の北満(中国東北地区)の地から酷暑の南方の孤島までおよび、昭和20年8月の終戦になっても、救護班によっては召集解除されず赤十字の旗を掲げて日夜必死に続けられました。
傷病兵を救護するために、茨城県支部からも18・19歳のまだ若き赤十字の救護看護婦たちが召集を受け、兵士とともに異国の地へ派遣され、使命感に燃えて献身的に奉仕し、不幸にも多くの赤十字救護看護婦が殉職されました。
「慰霊碑を建て、尊い生命をおとされた救護看護婦たちの霊を慰めたい」との思いから、昭和49年、気高く美しい赤十字救護看護婦像の「慰霊碑」が建立されたのです。
当初は、水戸赤十字病院敷地内に建立しましたが、支部の新築移転に伴い、平成15年に現在の支部玄関前に移設いたしました。
この銅像は、当時、日展評議員であった彫刻家「小森邦夫」氏に制作を依頼し、「愛の灯」と名づけられました。
わずか88センチ四方の台座に高さ2メートルの慰霊碑の、建立費用は、当時で473万円かかりましたが、主に寄付によってまかなわれました。

平和への願いをこめて

赤十字救護看護婦像慰霊碑「愛の灯」 碑文には、
「日本赤十字社茨城県支部救護員として、赤十字の旗のもとに召され、戦時事変に際し傷病兵の救護に献身し、博愛と奉仕の使命に殉ぜられた方々の遺徳を偲び、そのみたまのとこしえに安らかれと祈ってこの碑を建立しました。私どもの同胞がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛の灯の偉大さをしのび平和への願いをこめてこれを後世に永く伝えようとするものであります。」
と記されております。
また、慰霊碑の裏には、22名の殉職救護員の名前が刻まれております。
赤十字おこりは、敵見方の差別なく傷病兵を救護するための団体をつくったことがはじまりです。
しかし、私たちは、世界の人々と手をつなぎ、再び戦争による赤十字の救護活動を必要としない社会を築き、赤十字が福祉のために活動する団体と変わるよう努めていかなければなりません。

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